「『府』は『県』と何が違うのだろう」。大阪都構想が争点となった昨年の大阪府知事・市長選挙をきっかけに、こんな疑問が湧いた。現在、「府」を使うのは大阪府と京都府だけだ。ただ戦前までは東京都の前身「東京府」があった。明治維新直後には「奈良府」なども存在したという。「府」の歴史を調べた。
「大政奉還後に明治政府が、幕府直轄地のうち奉行が支配した土地や開港した港などを『府』、代官の支配地を『県』と称したのが始まりです」。幕末・明治期の歴史が専門の佐々木克・京都大学名誉教授を訪ねると、明快に教えてくれた。「『府』という漢字は軍事・政治の拠点や大都市を意味します。要地として直接管理する意志を示すため『府』と称したようです」
「府」になったのは1868年に設置された京都府を皮切りに江戸府、神奈川府、奈良府、大阪府、長崎府などの計10カ所。ただ神奈川府がわずか2カ月足らずで神奈川県に変わるなど、地方制度や境界線はめまぐるしく変わった。
「この時期の府県の統合分離は、各地にあった飛び地を整理統合する狙いがありました」。明治期の地方制度を研究している神奈川県立鶴見高校の石田諭司教諭が教えてくれた。
1869年、「京都、東京、大阪以外は府と呼ばない」との内容の太政官布告が発令され、3都市のみの呼称となった。なぜこの3都市に限られたのか。
佐々木名誉教授は「行政の中心である江戸、経済の中心である大阪、天皇が住まう京都と、江戸以来の『三都』を引き継いだようです」と話す。最重要地だった3都市を、他と「別格扱い」する意味があったという。
大阪府庁舎に刻まれた「大阪府廳」の文字(写真左)と京都府庁の門柱(同右)
「3都市が首都候補地だった表れでは」と唱えるのは、都道府県の由来に詳しい琵琶湖博物館(滋賀県草津市)の戸田孝主任学芸員。事実、明治政府は当時3都市を念頭に、遷都論を活発に議論していた。浪速(大阪)遷都論、江戸(東京)と京都(西京)の東西二京論などだ。
戸田学芸員は「開発余地やインフラから、江戸はもともと本命でした。ただ戊辰戦争で江戸が戦禍に巻き込まれていれば、財政難の明治政府には新都を造る余力はありませんでした」と指摘。戊辰戦争後も各地で反乱が続き、「決して安泰ではなかった東京から、再び天皇の居所を変える事態も視野に入れていたのでは」と付け加える。
「府」は、1871年の廃藩置県を経て1890年の府県制で確立。太平洋戦争中に東京府が東京市と統合して東京都になるまで、3府が続く。戦後の地方自治法施行で「府」の立場は「都」「道」「県」と対等になったが、名称は引き継がれた。
大阪都構想を唱える大阪維新の会の幹部は「東京と同じ行政の枠組みが実現した場合、名称も『大阪都』にしたい」と話す。確かに「都」について地方自治法には「首都所在地に限る」との規定がない。
そもそも現在は東京を首都とする法律自体がなく、政府や天皇の居所などがあることから慣習的に「首都」とされているという。「実は維新の際、京都から東京に移るにあたって天皇は、詔を出すなど明確な形で遷都を宣言していません」と佐々木名誉教授が教えてくれた。いまだに京都を都と見なす説もあるという。「大阪都構想の余波で『首都とは何か』という議論が起きるかもしれませんね」(大阪社会部 舩越純一)
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2012年1月11日付]