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徒然なるまゝ…117におもう

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 fukuchan-hi     Reading:NHKニュース 14万人余 “みなし仮設住宅”に 今朝のビジネス展望で内橋克人さんが言っていましたが、117後も問題は一杯あった。この問題も同じ。今回は原発まで事故拡大したので、更に深刻。117は決して成功例ではない!  上記は本日のツイート。下記はNHKビジネス展望「内橋克人先生」いまさきもりさんのをコピペさせていただきました。

1月17日 NHK『ラジオあさいちばん』から
☆☆☆ ビジネス展望 ☆☆☆
『阪神淡路大震災 17年の現実』  内橋克人 さん

阪神淡路大震災から17年という長い時間が過ぎてしまった。
今では、阪神淡路大震災を知らないという人が、
神戸市民では全体の4割を超え、神戸市職員でも3分の1以上に上る、と
神戸市長さんが地元紙で語っている。

私は(内橋さん)毎年1月になると、被災地の現状を話すようにしてきた。
被災者が置かれている厳しい現実について、
『震災は終わっていない』という事実を知って頂くためにである。

そこへ昨年3月、東日本大震災が起きてしまった。
阪神淡路大震災からの17年を返り見ることで、
東日本大震災の復旧復興に、
何が問われ、何が求められているか、意見を述べてみたい。

阪神淡路大震災を60歳代で被災した方が、今は70〜80歳代になる。
被災者が高齢化する中で、本当に『人間の復興』が果たされたのだろうか。

まず2つの震災に共通して唱えられた『創造的復興』の虚実について考えてみる。
『創造的復興』という言葉は、
東日本大震災から1ヶ月後に、総理大臣の諮問機関である『復興構想会議』で強調された。

復興構想会議は基本方針として5つの項目を掲げ、
その一つとして『単なる復興ではなく”創造的復興”を期す』を掲げている。

枝野官房長官(その当時)は復興構想会議の議長に、
「阪神淡路大震災の復興を後押しした経験を生かして欲しい」
と語っていた。
枝野さんは、阪神淡路大震災の復興が成功モデルだったと思い込んでいるようである 。

しかしその復興の現実はどうだったのか。
私は、岩波書店の同時代ライブラリーに『大震災復興への警鐘』という本を出したが、 
その中で、神戸市内のある自治会のアピールの言葉を紹介している。

神戸市は、震災からまだ 1カ月も経たない 2月15日の臨時市議会で 
『震災復興緊急整備条例』なるものを成立させた。
これに対して自治会連合会などが
『市民の合意も理解もないこの条例は、第二の大災害である』
と訴え、次のように叫んでいる。
 
『いま神戸市が打ち出している都市計画事業は
いずれも住民の反対や批判で、これまで事業化が難航していたものばかりである』
『神戸市はそれらの事業を、
住民が震災で打ちのめされ、後片付けに追われ、無力感に襲われているこの時に、
強権を発動して一挙に実現しようとしている』 

ここに見られるのは、不幸な震災を逆利用して
これまで住民・市民から強い反対を受けて立ち往生してきた都市計画や道路計画を
一挙に強行しようとする姿ではないか、
と私は書いている。

その後の現実は、
区画整理事業から市街地再開発、幹線道路計画、神戸空港の造成に至るまで、
すべてがその通りに進んだ。
産業基盤の復興や建設事業が、なによりも最優先された。
しかも事業費の9割までは、被災地の外の大手ゼネコンにゆだねられ、
地元の中小土木建設業は下請けや再下請けとされ、
そのあげく、多くは倒産に追い込まれてしまった。

そして、被災者の皆さんの生活再建はどうだったのだろうか。
上述の自治会連合会のアピールでも、
『家を失った被災者たちは、仮設住宅建設などの緊急対策実施を強く望んでいるが
なぜか市の住宅建設は遅々として進まず、
他方、大規模な都市計画事業の実施を知らせる市の広報ばかりが次々に大量に出回り、
市民の不安と焦りを駆き立てている』
と書かれている。

震災後 4カ月も経たない5月に、当時の村山富市首相は
 『自然災害等によって生じた被害は自助努力で回復してもらう。国は個人補償はしない』
と明言した。
この結果と言えば、震災後 16年 経った昨年までに、
復興住宅で孤独死した方は 900人を超え、
被害の大きかった所での自殺率 は依然として高いままである。 
いまだ震災は終わっていないと、言うべきではないだろうか。
 
人が生きていくのに必要な居住空間の保証こそは、
国の大きな責務であると言えないだろうか。
しかし阪神淡路大震災の時も、またそれまでも、
我々の社会にはそのような制度は無論、そういう考え方もなかった。

市民自らが立ち上がり行動を起こすまで
『被災者を救済する法律』は何一つ存在していなかった。

この時、市民が考え議員が立法を進めるという『市民議員立法』を迫る運動や、
あるいは生活協同組合などの署名活動が、やっと実を結んだ。
それは、阪神淡路大震災から3年後の 1998年のことで、
こうして『被災者生活再建支援法』が生まれた。

阪神淡路大震災の後、
被災地から地域の外へ出た県外被災者は12万人と言われているが、
この人たちは支援からも排除されて被災者台帳さえ整備されていない、
というような現実もまだまだ多く残っている。

復興とは何か。
阪神淡路大震災から17年、しっかりと総括する事こそが、
即ち、東日本大震災の復旧復興への道標・指針になると考えている。

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1.17 もう17年も経ってしまった。未だ若かれし頃の強烈な思い出、あの頃は被災地での体験談を聞くことはあっても、話題として積極的に話しかけることは、躊躇われた。漸く雑談で話題に出来る様になるには3年の歳月が経過していた様の記憶している。当然テレビ・ラジオ・新聞・雑誌は連日の様に報道を続けたのであるが、今回の311とはやはり少し様相が異なります。今は、インターネットの時代となり、311当日の報道ですら、中学生がustreamしたNHK放送の転送で、スタートしたと言って過言ではない。それに続く福島の原発事故、徐々に剥がれる今までの報道の仮面、昨年は本当にいろいろな真相がはっきりした年となったと思う。その意味では、阪神大震災では、コミュニケや報道は不十分であったのではないかと思われる。被害は311は117より数倍の大きさであったが、情報量も数倍あった様に思う。いい意味で「絆」がより強かったのではなかろうか。政府の頼りなさは、原発もあり、相当落ちるが、今後本当に117を反省し、決して満足できない経験として、参考として、東日本震災被害地への対応として欲しいものです。


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