横浜市は、1年で待ち児童ゼロへの改革を成し遂げました。素晴らしき尊敬出来るリーダーです!
夜討ち朝駆けで働いて、入社5年目にいただいた
昨年5月に自宅から市長公舎に移った。引っ越し荷物をまとめようと本棚をみていると、片隅に小さな紫色の箱がある。指輪か何かだったかしら。そう思いながら箱を開けると、目に飛び込んできたのはホンダの営業技能認証章だ。
箱の表面は日光にさらされ変色しているが、中の徽章(きしょう)は当時のまま輝いている。眺めていると、セールスレディーとして町を駆け巡っていたころの自分、お世話になったお客様、一緒に働いた上司や同僚の顔が次々に浮かび懐かしさで胸がいっぱいになった。
1965年、私は高校を卒業して大手繊維メーカーに就職した。OL(オフィスレディー)という言葉が使われ始めたころで、世間的にみれば人気企業の花のOLだ。だが、任される仕事はお茶くみやコピーとり。早々と営業見習いに出かける男性同期との差は歴然としていた。女性は花嫁候補でしかなかった。
仕事がしたかった。男性と同じやりがいのある仕事が。転職し、結婚し、共働きを続けるなかで出合ったのが車のセールスだ。販売員募集の新聞の折り込みチラシを手に「まず3カ月のお試しでもいいからお願いします」と、自宅近くの販売店の社長に頼み込んだ。31歳だった。
女が車を売るなど考えられなかった時代だ。1日100軒のノルマを自分に課し、インターホンを押し続けた。昼食の時間も削り、夜討ち朝駆けで働いた。男性と同じ仕事ができるのがうれしかった。気がつくと販売店でトップの成績をあげていた。
営業技能認証章は入社5年目にいただいた。優秀なセールスマンに与えられる栄誉で、男性と肩を並べてもらった喜びは今も忘れられない。
ホンダで私は一人前にしてもらった。無手勝流で始めたビジネス人生を、上司や同僚が支えてくれた。多くのお客様との出会いがあり、さまざまなことを教わった。
フォルクスワーゲン東京の社長時代に、あるIT企業の社長が「僕のこと覚えていますか」と電話をくれた。ホンダで車を買ってくれたかつての大学院生だった。「林さんの活躍をずっと見てましたよ」と言ってくれた。輝くバッジは、私のキャリア人生最初の勲章だ。
あれから約30年。最近は表彰する側に立つことが多いが、あの時の感激を思い出し、心をこめて「おめでとう」と伝えている。
*********************はやし・ふみこ 1946年東京生まれ。都立青山高校卒。東レなどを経て77年、ホンダオート横浜入社。トップの営業成績をあげるなど活躍。フォルクスワーゲン東京、BMW東京、ダイエー、東京日産自動車販売で経営に携わり、2009年8月から現職。著書に「一生懸命って素敵なこと」など。
*********************
私の人生のかたわらで、励まし続けてくれた女性たちがいる。大好きな宝塚歌劇団のスターだ。初めて見たのは5歳か6歳だった。当時、東京宝塚劇場は米軍に接収されていたから、どこかほかの劇場で見たのだと思う。華やかさ、美しさが幼心にしみこんだ。
紙箱に大事にしまっている
父は歌舞伎が好きで、幼いころから歌舞伎座に連れて行かれた。中学生になると東京・世田谷の自宅から1人で電車に乗り、浅草六区の常盤座で女剣劇を見たりしていた。考えるとかなりませていた。中でものめり込んだのが宝塚歌劇だ。
紙箱に大事にしまっている半券を取り出してみると、1959年のものから残っている。チケットに写る若き日の春日野八千代さんや加茂さくらさん、寿美花代さんたちのあでやかな姿が懐かしい。あのころ、劇場の横でスターがくるのを胸をときめかして待っていた。結婚前には給料の大半をつぎ込み、月に12回通っていたこともある。
宝塚の魅力はなんといっても舞台に立つスターの一生懸命な姿と、客を喜ばそうという真心だ。厳しい訓練で心技体を鍛え上げ、最高のもてなしで客につくす。一人の働く女として、彼女たちにどれだけ励まされたか。「女の人がこれだけできるんだ。私も頑張ろう」。会社で嫌なことがあっても、舞台を見たあとは前を向くことができた。
スターの成長を見守れるのも楽しい。中学生のころ研究科1年のある女性を応援していた。私が15歳、彼女が20歳前後。その後、疎遠になっていたのだが、フォルクスワーゲン東京社長のころ偶然、シャンソン歌手として活躍する彼女に出会った。40年ぶりだった。向こうも私を覚えてくれており、昔話に花が咲いた。
今は多忙で年に2〜3回しか足を運べないが、宝塚歌劇は人生の極上の娯楽であり、働く女性の応援歌だと信じている。
宝塚は、来年に創立100周年を迎える。レビューの火を100年守るのは並大抵ではない。私はその半分以上を見守っていたことになる。往年のトップスターだった春日野さんは、昨年8月に96歳で亡くなった。彼女には生きて100周年を迎えてほしかった。
1999年秋、BMW東京中央支店の支店長として働いていた。ある日、一本の電話がかかってきた。フォルクスワーゲングループ・ジャパンの英国人社長が、最大の直営販売店であるファーレン東京(当時)の社長をやってほしいと言っている……。ヘッドハンティングだった。
今も我が家で帰りを待っていてくれる
誘われるように社長に会いに行った。「社長の最大の仕事は社員を幸せにすること。業績が伸びず不幸な状態の社員を、あなたの力で幸せにしてほしい」「女性でもトップマネジメントができることを世の中にみせてあげてください。日本の若い女性の励みになるはず」といった言葉に感動した。実は彼もBMWからの転職組で、私の仕事に注目してくれていたのだ。
心は揺れた。12年間働いてきたBMWのブランドに愛着はある。しかも女性支店長など珍しい時代に私を登用し、2つの支店を任せてくれた。ライバル会社に行くことなどできるだろうか。社長業への不安もあった。一方で男性社会の息苦しさも感じていた。自分の考える経営をしてみたいとの思いもあった。1カ月近く悩み続けた。
そのころ、我が家の庭に生後半年くらいの子猫が顔を出していた。私は大の猫好き。すでに2匹の猫を飼っていた。子猫を抱きたくて仕方がないのだが、近づくとさっと逃げてしまう。
ところが、その日も悩みながら帰宅すると、その子猫が食堂のイスで寝ているではないか。逃げ出さないようあわてて引き戸をしめ、子猫を眺めていると悩んでいるのがばかばかしくなった。あれほど捕まらなかった猫が、屈託なげに愛らしい顔で眠っている。
「私はチャンスを与えられたのだ。ならばやってみよう」。転職を決断した瞬間だった。夫も「チャンスの神には前髪しかないよ」と後押ししてくれた。
子猫はミッキーと名付け、我が家の一員になった。選んだ道は、結果として正解だったと思う。トップとしての経験はその後のキャリアを開いてくれた。市長公舎住まいで毎日は会えないが、ミッキーは今も我が家で私の帰りを待ってくれている。
2005年、私はダイエー再建を任され会長兼CEOに就任した。小売業に妙手はない。まず、長年厳しい経営環境で頑張ってこられた従業員さんを励まそうと、日本全国の店舗を駆けずり回った。再生への手ごたえを感じ始めたころ、突然の株主交代があり、社長兼COOで活躍された現マイクロソフト日本法人社長樋口泰行さんが退任。私は良きビジネスパートナーを失うことになった。
ダイエー時代、サギのたたずまいに励まされた
副会長となり、ひとり再生への責任感で眠れぬ夜も幾たびかあった。そんなある日、自宅近くの鶴見川沿いを歩いていると、横なぐりの雪が降り始めた。顔をあげると、川の真ん中に白サギがたたずんでいる。凍えるような寒さの中で、餌を求めて微動だにしない。
ダイエーの経営は厳しく、男性ばかりの経営陣の中で弱音も吐けず、自分が選んだ道と覚悟はしていても孤独感が身にしみた。白サギが自分の姿に重なった。
白サギに心を寄せているうちに「彼らはただ餌を求め、生きるために立っているんだ」と思い至った。餌が獲(と)れなければ死ぬしかない。生存をかけている。私は少なくとも食べられないわけではない。そう考えればどんな困難だって乗り越えられるのではないか。気持ちがふっと軽くなった。
そんな体験をした後、なぜか街中でも空を見上げると、よく白サギを見かけるようになった。単に気づくようになっただけかもしれないが、私を見守っていてくれるような気がした。
ある時、京都に出張した。観光地巡りなどする余裕もなく、いつものように店舗を回っていると、運転手さんが「紅葉は見ないんですか」と言う。「再生途中なのにとんでもない」と答えると「近くに、きれいな神社があるんですよ。そのぐらいはいいんじゃないですか」と誘ってくれる。
ちょっとだけ寄り道する気になって訪れたのが、鷺森(さぎのもり)神社だった。白サギが描かれた絵馬を見て運命のようなものを感じ、買い求めた。帰宅後に縁起を読み、5月5日に「神幸祭」と呼ぶ祭りが開かれることを知った。実はこの日は私の誕生日だ。以来、お守りとして絵馬を大切に持っている。
横浜市役所の玄関を入ると、1階ホールに1体のブロンズ像がある。米国カリフォルニア州サンディエゴの市民団体が、横浜市との姉妹都市提携55周年を記念して贈ってくれたものだ。作者はアメリカ先住民のアラン・ハウザー氏。世界的に有名な彫刻家だ。
姉妹都市サンディエゴの市民団体から贈られた
横浜市は歴史ある港町として、世界の多くの町と姉妹都市になっている。同市との提携は最も古い。両市民の交流は途切れることなく続き、2011年の東日本大震災では多くの義援金をお預かりし、被災地にお届けした。現地の小学校から石巻市の小学校に千羽鶴とメッセージも託された。
昨年4月、私はサンディエゴを訪れてお礼を述べ、石巻の小学校児童からのメッセージを届けた。姉妹都市協会の方々に会い、「友好の鐘」や「水の守護神像」を贈りあった交流の歴史と熱い思いに感激した。長年の活動に敬意を表し、同協会に横浜文化賞を贈呈することに。
11月に表彰式のため来日した協会の方が、友好のシンボルとして下さったのがこの像だ。タイトルは「忍耐」。手足をくるまれた人が、柔和な表情を浮かべて横たわっている。
「先住民は手足の自由を奪われたような苦難の人生を歩みましたが、柔和な心で平和を築く今日を勝ち取りました。最悪の災害に直面した日本の皆さんにこれを贈りたい」。代表者はこんな言葉を添えてくれた。
「忍耐」は、私の気持ちにもぴったりだった。市長は地味な仕事だ。多様な人を相手に、法律や条例の枠の中で、事業をすすめる。粘り強く議会や市民の理解を得なければならない。人を大切に、対話を尊重しながら、共感と信頼の行政を貫くには相当な覚悟と忍耐が要求される。贈り物に私も励まされた。
市長に就任して3年余。国と国との外交はもちろん重要だが、都市と都市、市民同士の草の根の交流の大切さも実感している。55年にわたって両市民がはぐくんできた友情と、協会の方々が像に込めた思いをしっかり受け止め、前に進みたい。