京都大阪には近江商人を祖先に持つ家が多い様です。京都女子言葉の「堪忍どすえぇ」に代表される”辛抱して耐えて下さい”との謝り言葉は、柔らかいのですが芯の強い言葉ですね!…調べているといろいろ関連で出て来ます。しかし、京都でも大阪でも「生き馬の眼を抜く」的なえげつなさも存在しており、今の中国人商人を笑っていられないくらいのこともして来ているのです。ただ、その中でも、江戸時代からの梅岩の倫理が脈打っており、金次郎の銅像で教えられた二宮尊徳の教えも伝統的に根付いていたのです。これらが、日本での最下層までも失わない「心根」を保って来たのです。まして、江戸中期以降は実質第一頭に躍り出て来た商人に於いてしっかりした哲学になり、仏教の教えもあり、近代の市民となってきたのです!
古き教えを生かす(1)京の商家「堪忍」の額 正直や忍耐で支え合い :日本経済新聞
吉田家住宅で行われる心学の勉強会。奥の上に「堪忍」の額が掛かる(京都市中京区)
京都市の中心部にはかつて「堪忍」の字を刻んだ木額を店先に掲げた商家が多くあったという。京呉服の問屋街・室町の一角にある中京区新町通六角。現在、祇園祭山鉾(やまぼこ)連合会の理事長を務める吉田孝次郎さんの自宅にも小さな「堪忍」の額が掛かる。
市の景観重要建造物にも指定されている築104年の町家。額は吉田さんが生まれる前からあったらしい。「かつては白生地を扱う商売をしましたから、商人にとって大切な意味があったんでしょう」。以前、骨董市に出向くと堪忍の額が多く出品されていた。昔はかなり普及し、その後建て替えなどに伴い処分されたことをうかがわせる。
堪忍とは、怒りを抑えて過ちを許すこと。あるいはこらえ、我慢するという意味だ。商売には我慢が大事という注意喚起なら店の奥で従業員向けに示せばいいはず。なぜ客に見せ、誇示するように掲げられていたのかという疑問が湧く。
吉田家住宅から600メートルほど東へ行った中京区富小路通六角。様々な箱を製造する企業、田中ケースの田中宏幸社長は「堪忍」の木額を保管している。1923年の創業。かつては店に掲げられていたという。
改築で外したが、創業者の心だと思って手元に置いてきた。田中さんは堪忍には2つの意味があったと考えている。1つは正直に忍耐強く仕事をするという商売の心構え。もう1つは客が満足できると確信できない仕事は受けないという心意気だ。「納得できない商品は売れない。堪忍しておくれやす」という姿勢を示していたと思っている。
京都の商家に広がった堪忍の出どころは江戸時代の教えとみられる。石門心学――。現在の京都府亀岡市に生まれ、京都の呉服屋に奉公した石田梅岩が思索を重ねて説いた思想だ。
正直や勤勉、倹約、質素を重んじ、商人や町人に正しい生き方を示した石門心学は江戸後期、全国に広まり、各地に心学講舎と呼ばれる教学施設が造られた。堪忍の木額が多くあった京都市の中心区域は心学が盛んだった地域と重なる。
田中ケースのすぐ近くには梅岩の弟子、手島堵庵(とあん)が開いた心学講舎、五楽舎があった。吉田さんが学んだ明倫小学校の源流は心学講舎・明倫舎だ。「客とも取引先ともお互いに堪忍し合って商いをする京都の町衆の思想。我慢し合い、許し合う。堪忍という言葉は商道徳であり、民の生活規範になっていたんでしょう」と吉田さん。
昨夏、不思議な巡り合わせがあった。心学講舎の流れをくむ社団法人心学修正舎の集まりが吉田家住宅で開かれるようになったのだ。修正舎は一時活動を休止していたが2010年に再出発し、勉強会を始めた。その後会場が使えなくなり、新たな会場を探した末、貸してもらえるようになったのが吉田家だった。
堪忍の額が掛かる部屋で文献の読み込みなどを続けている。直近の勉強会のテーマは「堪忍の心」だった。堪忍が出てくる心学の文献などが紹介された。「堪忍には日本人の心に関係する深い意味が隠されているように思います」。冬の夜、15人ほどが集まり講師の話に耳を傾けた。
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人々に生き方や倫理などを説いた古い教えや人物を再評価し、広めていこうという動きが起きている。最近の事例や背景を探った。
仙がい - 出光コレクション - 出光美術館 (仙がいのガイは崖の山抜き)
仙がい (1750〜1837)は臨済宗古月派の僧。日本最古の禅寺である博多聖福寺の住職として活動した。禅の境地をわかりやすく説き示す軽妙洒脱でユーモアに富んだその書画は、人々に広く愛されてきた。出光コレクション第1号となった「指月布袋画賛」をはじめ、国内最大のコレクションは約1000件を数える。
作品解説しなやかに枝を風になびかせる柳の大木を描き、その横に「堪忍」の大きな文字を添えている。吹き付ける風の中には耐え難い風もあるだろうが、柳はいずれの風をもさらりと受け流してやり過ごす。(仙がい)の感性は柳の姿にも人生の手本としての教訓を読み取り、我慢できないこともじっと堪え忍ぶことの肝要を説く図としてまとめあげた。それは処世訓であるばかりでなく、禅の修行にも重要な忍辱の教えに通じる仏教の根本の教えでもある。
作品解説子供達と戯れる布袋さんのほのぼのとした情景のようだが、「月」を暗示する賛文「を月様幾ツ、十三七ツ」の存在から、禅の根本を説いた教訓「指月布袋」の図であることがわかる。月は円満な悟りの境地を、指し示す指は経典を象徴しているが、月が指の遙か彼方、天空にあるように、「不立文字」を説く禅の悟りは経典学習などでは容易に到達できず、厳しい修行を通して獲得するものであることを説いている。コレクション第一号の作品。
作品解説「○」「△」「□」という図形のみを描いたシンプルな図。左端には「扶桑最初禅窟(日本最古の禅寺)」聖福寺のが描いたとする落款を記すのみで、画中に作品解釈の手がかりとなる賛文がなく、禅画の中では最も難解な作品とされる。「○」が象徴する満月のように円満な悟道の境地に至る修行の階梯を図示したとも、この世の存在すべてを三つの図形に代表させ、「大宇宙」を小画面に凝縮させたともいわれ、その解釈には諸説ある。
作品解説こちらを向いて、にやりと笑っている一匹の蛙。ちょうど坐禅をするような姿勢で日々を過ごしている蛙を題材に、禅のなんたるかを説いている。「坐禅して人か佛になるならハ」の賛文の通り、坐禅という修行の形式にばかりこだわり、求道の精神を見失っているようでは悟りというものは一向に訪れることはないと説く。ともすると形式ばかりにとらわれていた当時の弟子たちに向けて発せられたの微笑ましくも手厳しい警鐘なのである。
作品解説丸い円を描くことは円満な悟りの境地の表明であるとして、古来より禅僧の間で好んで描かれてきた。しかし、「これを茶菓子だと思って食べよ」という賛文からは、大切な円相図をいとも簡単に捨て去ってしまうおうとするの態度を読み取ることができる。禅においては常により高い悟りの境地を求め続けるべきであり、画賛の完成はさらに深い悟りの追求へのスタートでもあるのだ。本図は禅僧の真摯な求道精神を示している。
作品解説年を重ねると顕著になってくる老人たちの日頃の立ち居振る舞いの特徴や、口うるさい言動などを「歌仙」に喩えて詠んだ先人の歌を流に再構成して賛にまとめている。「老い」は仕方のないことと諦めず、輪廻の長いサイクルからするとほんの一時の辛抱でしかないと肯定的にとらえ、「老い」を謳歌することを提案した流の「老い」への指南書である。その証拠に、描かれている老人達は皆おおらかで、のびのびとして微笑ましい。
by 大和骨董図鑑 – 仙崖作 二字書「堪忍」 水墨画 紙本 掛軸
近江商人・松居遊見が自筆した「堪忍」の二文字
堪忍(かんにん) 「苦しいことをがまんして耐え忍ぶ」「怒りをこらえて他人の過ちを許す」
近江国神崎郡位田村(現在の東近江市五個荘竜田町)の近江商人・小杉五郎右衛門家に、
代々伝わる家訓です。
この「堪忍」にまつわるエピソードをご紹介します。
天保8年(1837年)6月、小杉五郎右衛門の商圏の中心だった金沢藩で、
棄捐令(貸借を破棄される法令)が出されたため、売掛金が全部損失しました。
大損失をうけ、落胆のあまり、日夜寝室で臥せっていた五郎右衛門。
そんな五郎右衛門のもとへ、隣家に住む近江商人の先輩・松居遊見が訪ねてきて、
「この困難なときこそがチャンスだ」と激励し、
加賀国(石川県)へ再び商いに行くようにすすめました。
松居遊見の言葉を聞いて冷静になった五郎右衛門は、
「この棄損令によって、今、加賀国へは他の商人たちは行かないはずだ。
きっと商品不足で、人びとは困っているに違いない。
この時期に、いち早く現金販売すれば、必ず利益は上がる」と考え、
すぐに商品を大量に仕入れ、加賀国へと向かいました。
その結果、多くの人びとに歓迎され、商売は大繁盛。
「苦境の時こそチャンス」と教えてくれた松居遊見に、
小杉家は後々まで感謝し、小杉五郎右衛門家には、
遊見が力強く自筆した「堪忍」と描かれた掛け軸が大切に伝えられているそうです。