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真珠の小箱(118) 「川崎尚之助/新島八重の前夫」

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 再来年の大河ドラマに決まっている「八重の桜」主人公の前夫の消息が出て来たニュース有り、改めて伝記のブログを読む。”事実は小説より希なり”との名文句で一世を風靡した高橋アナウンサーも亡くなって久しいのですが、この通りの烈女の八重さん、知れば知る程、感嘆の他ありません。…やはり前夫にも愛されていたのでしょうね…別の意味での感慨あり、思わず落涙… … …

13年大河ドラマのヒロイン新島八重の前夫「飢餓傍観できぬ」 札幌で公文書見つかる :日本経済新聞

2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の前夫、川崎尚之助について書かれた公文書など40点が、札幌市の北海道立文書館で見つかった。晩年の姿や、藩の人たちの飢えをしのぐために奔走した様子などが読み解ける。

川崎尚之助の名前(中央部)が記された公文書=北海道立文書館提供

川崎尚之助の名前(中央部)が記された公文書=北海道立文書館提供

 見つかった司法省の往復書簡や開拓使の公文録などによると、会津藩士だった川崎は1870年10月、現在の青森県東部にあった斗南藩に移住したが米の取引を巡って訴えられ、75年3月、訴訟継続中に慢性肺炎となり東京の病院で死亡した。

 斗南藩は米の収穫量が少なく、寒さと飢えから生活は困窮。公文書には川崎が「飢餓を傍観して黙ってはいられなかった」と米の調達に立ち上がった様子も記されている。

 仲間と外国米と収穫予定の大豆とを交換する契約にこぎ着けるが、蔵から米を持ち出す手形の扱いなどを巡って外国人商人らと訴訟沙汰に。

 仲間に逃げられた川崎は「藩は無関係」と責任を一身に背負った。東京で裁判をすることになり、72年8月から東京の身元引受人の元に身を寄せた。立ち退きに遭ったり、引受人が3度も交代したりと不遇も続いた。

 文書を発見した歴史研究家あさくらゆうさんは「犠牲心に富んだ人間性がうかがえる。藩のことだけを考えた決断だったのだろう」と分析する。

 ただ、八重とのなれ初めや結婚した時期、離別の理由などを書いた文書は見つからなかった。八重は同志社大(京都市)の創設者、新島襄と76年に再婚。川崎は会津藩士だった68年、戊辰戦争の鶴ケ城籠城戦で八重らとともに戦ったが落城。その後の足取りについては不明な点が多かった。

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新島八重(山本八重)の略歴/偉人伝 …詳細はここから!

安政4(1857)年

 川崎尚之助は、兄/覚馬の招きで蘭学所の教授となる。
 但馬出石藩の医家に生れ、若くして蘭学と舎密術(理化学)を修めた優秀な洋学者だった。
 後に、藩校日新館の教授となり、鉄砲や弾丸の製造などを教えている。
 山本家に寄宿し、八重と知り合う。

文久2(1862)年

 兄/覚馬と妻/うらとの間に、次女/みねが誕生。
 長女は、夭折している。
 覚馬は、藩主松平容保公の京都守護職に伴って京都入りする。
 西洋式軍隊の指導にあたり、洋学所を主宰し洋学の講義も行う。

元治元(1864)年

7月19日
 蛤御門の変が勃発し、兄/覚馬は大砲隊を指揮して、天皇に仇なす朝敵/長州藩を撃退する。
 勲功により公用人に任ぜられる。
 共に戦った薩摩藩は、覚馬の人格に触れ、一目も二目も置いたという。
 しばらくして白内障にかかり失明してしまい、残留することになる。
 失明は、禁門の変で破片を受けた傷による、とも云われる。

元治2(1865)年

 八重は、川崎尚之助と結婚、19歳であった。
 父/権八から、結婚後は鉄砲を持つことを禁止される。

慶応4(1868)年

1月5日
 鳥羽伏見の戦いが勃発、参戦した弟/三郎は淀で負傷する。
 紀州から海路で江戸に移送されたが、芝新銭座の藩邸で死亡した。
 遺髪と形見の装束が、国元の両親に届けられる。
 眼疾で失明していた兄/覚馬は、京都に居住していたが、蹴上から大津に逃れる際に薩摩藩兵に捕えられる。
 国元の両親には、四条河原で処刑されたと伝えられる。 実際は、覚馬の人材の素晴らしさを知っていた薩摩藩は、捕虜とは思えないほどの厚遇で処していた。
 幽閉中に上程した建白書「管見」は、西郷隆盛らを敬服させ、明治政府の政策の骨格となっている。

5月1日
 白河の戦いの報を聞き、いても立ってもいられず、父に隠れて、物置から鉄砲を持ち出し練習を再開する。
 戦雲たれこめる中、白虎隊伊東悌次郎は、八重に小銃の取り扱いの教えを請う。
 ゲーベル銃、短銃身化したヤゲール銃などの取り扱いを教えた。
 伊東悌次郎は、後に飯盛山で自刃している。
 何度も教えているうちに、他の白虎隊士も鉄砲を習いに数名がやってくるようになった。

8月23日
 台風が抜けぬ早朝、西軍が城下に迫り、入城を促す割場の鐘が鳴り響いた。
 前日には、十六橋破れるの報を聞いており覚悟はしていたものの、時の流れの速さに戸惑っている間に、敵の一部侵入し始めていた。
 戦いに邪魔になると、女の命である黒髪を小刀で切ろうとしたが、うまくいかない。
 自邸の北東隣りに住む高木時尾に切ってもらった。
 高木時尾は、後に新撰組三番隊隊長/斉藤一の妻になっている。
 髪を切り落とした八重は、弟/三郎の形見の装束を身にまとい、大小を腰に帯び、七連発のスペンサー銃を持って、母/さく、嫂/うら、姪/みねとともに自邸を出る。
 天神橋の方からは、銃撃の音が止まることなく聞こえてくる。
 2度ほど銃弾が頭上をかすめたが、無事に三の丸埋門から入城できた。
 会津藩には、女性を兵として戦わせる慣習はない。
 弟/三郎の形見の装束を身にまとい、弟と兄の仇を取りたいとの熱意に負け、参戦が黙認された。
 「私は弟の敵を取らねばならぬ、私すなわち三郎だという気持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟のため、命の限り戦う決心で、城に入りましたのでございます」(婦人世界)

 夕刻、城内に引き上げてきた夫/尚之助と再開する。
 髪を断ち、男装していた妻/八重の姿に、尚之助は驚愕した。
 砲術の心得のある八重は、夫の大砲隊を手助けしている。
 一時は、小田山に設けた西軍の砲台を壊滅するほど、正確無比の反撃をした。
 城内の砲陣は、豊岡宮(今の豊岡墓地)に布かれていた。
 砲術を指導し、負傷者の救護とともに、婦女子に弾薬の製造を教えている。
 藩兵とともに夜襲に加わり、銃撃にも参加した。
 幼き頃には、父/権八が「男であったなら」といわしめた所以である。

[伝説]
 9月14日の西軍総攻撃開始以降、早朝6時から18時頃まで激しい砲撃が浴びせられた。
 絶え間ない大砲の音で、小銃の音が聞こえないほどだったという。
 ある日、有賀千代子とともに病室に握飯を運ぶ途中、頭上に着弾した。
 瓦とともに砂塵が舞い、硝煙も加わって、眼も口もあけられず、呼吸もできなかった。
 やがて、有賀の姿が見えはじめると、土埃を浴び、土人形の化け物のような顔をしていた。
 思わず腹を抱えて笑ったが、有賀も八重の顔を指差して笑いこけたという。
 盆に載せていた握り飯が塵にまみれてしまい、これには落胆したそうだ。

[伝説]
 籠城戦の折、鶴ヶ城に撃ち込まれた砲弾に、四斤砲の不発弾があった。
 火薬によって中に入った鉄片が飛び散り、周りの被害を大きくする最新の砲弾である。
 八重は、藩主/松平容保公に呼ばれ説明を求められた。
 不発弾を動じることもなく分解しながら、冷静かつ淡々と構造などを事細かく解説する。
 当時の最新の砲弾の取り扱いと知識に、容保公や周りに控える者たちを驚かせた。
  「さすが砲術師範の娘、さすが覚馬の妹である、あっぱれ」
と言わしめた八重は、24歳であった。

9月17日
 父の権八は、玄武隊上土組として奮戦するも、一ノ堰の戦い討死する。

9月22日
 降伏することが決定された。
 真夜中の12時ごろ、三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りに心情をかんざしで刻んだ。
  「明日の夜は 何国の誰か 眺むらん  馴れし みしろに 残す月かげ」
 藩籍を持たない夫/尚之助は、開城の直前に城から去っていった。  江戸で塾の教師になったようだが、詳細は不明。
 西軍の鶴ヶ城総攻撃の9月14日に離縁し、その日から行方が分からなくなったとも云われる。

9月23日
 鶴ヶ城、開城。
 開城前に、
  「女子供は追放されるが、男は全員が切腹」
との噂が流れた。
 切腹するつもりで男装のまま、弟/三郎の名を騙り、男の列に並んだ。
 すぐに女だとバレテしまい、追い出された。

 夫と離縁し、父・兄・弟のみならず、藩をも失った。
 銃の操作を教えた白虎隊の少年たちさえ、失ってしまった。
 母/さくと覚馬の娘/みねを連れて、祖父/直高の奉公人の家に世話になる。
 農作業に従事し、村の子供たちに読み書きなどを教えている。
 一時、米沢へ出稼ぎに出るほど、困窮した生活を送る。
 一変した生活の状態は、まさに臥薪嘗胆の日々であった。
 苦難の日々は、3年もの間、続いた。

[伝説]
 八重は、今でいうところの“バツイチ”である。
 鶴ヶ城を開城した時に、離縁した藩士は少なくない。
 多くの妻が離縁されたが、自由の身になり、裕福な商家などに再婚している。
 故なき汚名を着せられ、将来の夢が消え去った会津男子の妻に対する愛であった。
 八重は、バツイチを隠そうとしたことなど、1度もない。

新島八重 - Wikipedia

ファイル:Niijima Yae.jpg 新島八重(右)とエバンゼリン・ブース(左/当時救世軍中将・米国司令官、ウィリアム・ブースの娘で、のち救世軍第4代大将)。右後方に同志社出身の山室軍平(救世軍中将・日本司令官)がいる(大正15年(1926年10月29日撮影)


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