朝日新聞デジタル:将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む
上段左から「東照大権現像」、「二代徳川秀忠像」、下段左から「三代徳川家光像」(ここまで白描淡彩本)、「四代徳川家綱像」(白描本)、右は「八代徳川吉宗像」(絹本着色本)=いずれも部分、徳川記念財団蔵
【家康は武骨でワイルド】
狩野安信筆の家康像の絵形と考えられる「東照大権現像(白描淡彩本)」(部分)
【親子はうり二つ】「三代徳川家光像(白描淡彩本)」(左)と「四代徳川家綱像(白描本)」=いずれも部分、徳川記念財団蔵
江戸幕府の初代将軍・徳川家康の面ざしを伝える一点の「紙形(かみがた)(肖像画の下絵にあたるスケッチ)」が注目を集めている。
徳川記念財団蔵「東照大権現像(白描淡彩本)」(縦68.5×横51.9センチ)だ。徳川宗家が伝えてきたもので、存在自体は以前から知られていた。同財団特別研究員の松島仁さん(近世美術史)が今春、江戸東京博物館で10月から開催予定の「徳川家康の肖像(すがた)―江戸時代の人々の家康観」展の準備のため、同財団所蔵の家康像を調査していて、図様の類似性などから、日光東照宮蔵の「徳川家康像」(狩野安信筆)の基になった絵と結論づけた。
徳川将軍家15代の将軍を描いた肖像画で確認されているものは百数十点。この大半を家康像が占めるが、松島さんが今回確認した紙形の図像は、頬骨を張った武骨な表情で、ちょっぴりワイルド。既知の様々な家康像とは趣が異なる。
群馬県立女子大教授の榊原悟さん(日本美術史)によると、近世の肖像画で紙形を制作するのは「それを基に複数の肖像画を描く可能性がある身分の高い人に限られる」という。
徳川将軍家の場合、将軍の死去後、すぐに御用絵師である狩野派の筆頭絵師に命令が下る。生前などにスケッチした紙形を基に下絵を描き、幕府の首脳部の了解を得たうえで、本画の制作にかかったとみられる。
この過程で威厳のある表情にするなどの様式化が行われることが多いのだが、逆に紙形では、「いかに容貌(ようぼう)が似ているか」などが重視された。11代家斉の肖像画を描いた木挽町狩野家の狩野養信(おさのぶ)の日記「公用日記」にも、12代家慶(いえよし)から「(紙形が)家斉に似ていて感心した」との言葉があったとの一節がある。
「(その意味で)今回の紙形は、年をとった家康のリアルな表情を伝える良好な作例では」と松島さん。ただし、紙形の作者は、安信ではなく、その父にあたる狩野孝信と推測。「残された紙形を基に、十数年以上経過してから、息子の安信が日光東照宮の徳川家康像を描いた」とみる。
これについて、江戸狩野派に詳しい成安造形大教授の小嵜(おざき)善通さん(近世絵画史)は「原本の模写の可能性もある」としたうえで、「執拗(しつよう)にしわを描く顔の描写や、ぽってりとした指の表現に、孝信のスタイルが認められる」と話す。
徳川記念財団所蔵の紙形や肖像画については、この10年で急速に整理が進み、財団や福島県立博物館専門学芸員の川延安直さん(近世絵画史)らの努力で、リストの一部や写真が公表されるなど、全容が明らかになってきた。たとえば、3代家光と4代家綱が親子だというのも、スケッチにあたる紙形なら一目瞭然だし、やはり親子にあたる2代秀忠と3代家光も、鼻のあたりがよく似ている。
将軍家などの肖像画の多くは、城内での礼拝のためなどに制作されたと考えられるが、紙形まで残る例は少ない。保存の問題もあり、研究者を含めて公開・観察がなかなか難しい資料群だが、今後も少しずつ研究が進むことを望みたい。(宮代栄一、小川雪)