スーチー氏:ノーベル平和賞受賞 記念講演の要旨− 毎日jp(毎日新聞)
ミャンマーの最大野党「国民民主連盟(NLD)」の党首アウンサンスーチー氏は16日午後(日本時間同日夜)、オスロ市内でノーベル平和賞受賞(1991年)の記念講演を行った。
◇講演の要旨
何年も前のこと、私は英国オックスフォードで、「無人島のレコード」というラジオ番組を息子のアレクサンダーと聴いていた。有名人が招かれ、無人島に持って行きたい8枚のレコード、聖書とシェークスピア全集以外の1冊の本、一つのぜいたく品は何かを語り合う番組だ。番組の最後に、息子は私が出演することがあると思うかと尋ねた。私は「もちろんよ」と軽い調子で答えた。息子は、なぜ私が番組に招かれると思うのか尋ね、私は「ノーベル文学賞を受賞するからかもね」と答えた。笑いあった。喜ばしいが実現しそうもない予想に思えた。
1989年、最初の自宅軟禁中に、夫のマイケル・エアリスが、私がノーベル平和賞にノミネートされたと教えてくれた。その時も私は笑ってしまった。
受賞の知らせはラジオで聴いた。事前に有力候補として報じられていたので、驚きはなかった。この演説の草稿を書きながら、当時の自分の反応を思いだそうと努めてみた。「あら、私に賞をくれることに決めたの」という感じだったと思う。現実とは思えなかった。
軟禁中、自分はもはや現実世界の一部ではないとの思いにしばしば陥った。家が世界だった私。共同体ごと閉じ込められた他の人々。そして自由な世界。それぞれが、無関心の宇宙で別々の軌道を進む惑星だった。
平和賞は、私を隔離された場所から、他の人たちが暮らす世界へと引き戻し、現実感を取り戻させてくれた。月日が過ぎ、受賞の反応が報じられるにつれ、ノーベル賞の意義を理解するようになった。より重要なことは、ノーベル賞が世界の人々の関心を、民主主義や人権を求めるビルマの闘いに引きつけたことだ。我々は忘れ去られなかった。
忘れられるということは、自分の一部が死ぬことであり、人類社会全体とのつながりの一部を失うことだ。先日タイを訪問した際、多くの人が「忘れないで」と叫んだ。私が平和賞を受賞したのは、抑圧され孤立したビルマもまた世界の一部であり、人類は一つであるとノーベル賞委員会が認めたということだ。受賞をきっかけに、民主主義と人権への私の関心は、国境を越えて広がった。平和賞が私の心の扉を開けてくれたのだ。
ビルマの平和の概念は、調和や健全性に悪影響を及ぼす要因をなくすことによる幸福、と説明できる。ビルマ語の「ニェン・チャン」は、直訳すると「炎が消えたときに得られる涼しさ」という意味だ。苦しみや争いの炎は世界中で燃えさかっている。私の国では北部では武力衝突が続き、西部では今回私が出国する数日前も宗教対立から焼き打ちや殺人が起きた。世界中どこでも平和の土台をむしばむ勢力がある。
仏教徒の私は、軟禁中に初めて、一般的に苦しみを意味する「ドゥカ」という言葉を調べようとした。六つのドゥカとは、生を受けること、年を取ること、病を得ること、死ぬこと、愛する人と別離すること、愛していない者との暮らしを強いられることだ。私は軟禁中、これらを日常的に実感した。苦しみが避けられないなら、可能な限り実際的な方法で和らげるべきだ。
軟禁下で、私は世界人権宣言の前文にあるお気に入りの一節に何度も勇気付けられた。
人権を軽視すれば、人間の良心を踏みにじる野蛮な行動をもたらす。こうした恐怖がなく、言論や信条の自由を享受できる世界こそ、人類の最高の望みなのだ。抑圧に対して最後の手段として反抗せずにすむよう、人権は法の支配の下で守られることが必要だ−−。この一節は、私がビルマで人権を求めて闘う理由を代弁している。
この1年、ビルマでは民主主義や人権を信じる仲間の努力が実を結びつつあるように見える。
民主主義や基本的人権が実現可能だという確信がなければ、過去の絶望的な時代に私たちの運動は続かなかっただろう。離脱した仲間もいるが、最も困難な状況下で数多くの仲間が闘い続けたことに驚かされる。
私が今日、皆さんと一緒にいられるのは、私の国で最近起きた変化のためであり、その変化はビルマの現状を世界に知らせようと努力してくれた皆さんのような自由と正義を愛する人々のおかげだ。
だが、私の国の話を続ける前に、政治囚の話をさせてほしい。ビルマでは今なお多くの政治囚が拘束され続けている。有名な政治囚が釈放され、残る無名の人たちが忘れられることを恐れている。政治囚は一人でも多すぎるのだという真実を思い起こし、早期に無条件で釈放されるよう協力してほしい。
ビルマは多民族国家で、その未来への信頼は、真の調和の精神の上にのみ築かれる。1948年に独立を成し遂げてから、国全体が平和であると言えた時はなかった。紛争の原因を取り除くための信頼と理解を発展させられなかった。ひとつの軽率な行為でも長年の停戦が駄目になる。ここ数カ月、政府と民族勢力の交渉は進展した。停戦合意が国民の念願と調和の精神に基づいた政治的解決にいたることを期待したい。
私の政党NLDは国民和解の過程でどんな役割を担う準備もできている。テインセイン大統領が始めた改革の維持には国内全勢力の知性的協力が不可欠だ。改革は国民生活の向上が伴ってこそ評価できる。国際社会も重要な役割を担っている。
我が国の潜在力は非常に大きい。より繁栄し、平和で自由な調和に満ちた民主的社会実現のため潜在力を伸ばし発展させるべきだ。
完全に平和な社会は得難い目標だが、その場所に向けた旅は続けなければならない。地上で完全な平和を成し遂げられなくても、平和に向けた共通の取り組みは人々や国々を信頼と友情で結びつけ、人類共同体をより安全で思いやりのあるものにするだろう。
私は「思いやり」という言葉を熟慮の末に使った。何年も熟慮したといえる。思いやりは人々の人生を変えることができる。
最近、タイのメラ難民キャンプを訪れた際、難民の生活を改善するために奮闘する人々に会った。彼らは「援助疲れ」について懸念を示した。「援助疲れ」は「同情疲れ」とも言い換えられる。「援助疲れ」は、資金提供を減らすという分かりやすい形で表面化する。我々は「同情疲れ」をしている時なのだろうか。難民の必要を満たすのに必要なコストは、無関心でいることのコストより高くつくのだろうか。
私は世界の援助者に対し、時として絶望的に避難する場所を探し続ける人々の要望を満たすことができるよう、協力を求めたい。
メラでは、タイ当局から難民キャンプにおけるさらに深刻な問題について聞いた。違法薬物使用やマラリアや結核、コレラなどへの対応だ。難民受け入れ国は、困難な問題に対処するための考慮や実際的な援助を当然受けるべきだ。
我々の究極の目的は、帰るべき家や希望がない人々が存在しない世界、自由で平和に暮らせる真の聖域のある世界を作り上げることだ。安心して眠り、幸せな気持ちで目覚められる世界を作るために手を携えよう。
私が民主主義の闘いを始めた時、何かの受賞をするなどとはまったく考えなかった。歴史は我々に、自分たちが信じる大義に向かって最善を尽くす機会を与えてくれた。ノーベル賞委員会やノルウェー国民、全世界の人々の支援は、平和を追求する私の信念をさらに強めてくれた。
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アウン・サン・スーチーって何モン | 那珂市 ラーメン 「まぁびん」 ブログ
祖国ビルマの民主化に人生をささげた人だ。
彼女には、イギリスに夫と息子2人がいる。
彼女は、オックスホード大学に留学している時に、ひとりのイギリス人から求婚された。彼と結婚するにあたり彼に条件を付けた。祖国の人々が自分を必要とするときは、直ぐに帰国するがそれでもかまわないか。夫マイケルは躊躇することなく同意した。
でその時がきた。
彼女はビルマに帰り戻れなくなった。
長年にわたる孤独な軟禁生活で「鉄の女」に変身した。夫たちに会っても自分から出国を拒んだ。それは一回でもビルマを離れたら2度とビルマに戻れられなくなることをを知っていたからだ。
彼が3年後、末期の癌と診断された。妻にそのことを電話で報告した。彼は、直接会って別れを告げるためにビルマ政府にビザの発行を求めた。だが政府は却下。彼の体力は急速に衰える中30回以上も申請を繰り返した。ローマ法王もクリントン大統領も嘆願書を出したが効果は無かった。
夫の死に目に会うには、オックスホードに戻るしかない10年間国家と家族の間を揺れ動いてきたスーチーにとって選択しなければならない時がきた。出国したら2度と戻れない。
イギリス大使館からマイケルに電話をかけ、そのたびごと夫は、イギリスに戻ることなど考えるなと言い張った。
会わないと決めたスーチーは、夫の好きな色のドレスをまとい髪にバラを挿してイギリス大使館に赴きカメラに向かって別れの言葉を語りかけた。「あなたの愛が心の支えだったと」
この映像がマイケルの元に届けられたのは、彼の死の2日後だった。
この記事を読んだ時、胸が詰まる思いをした。
神父が、結婚の儀式の時に「2人を死が分かつまで夫婦だと」言ったことを思い出す。
すばらしい夫婦愛だと思った。
彼女には勝てない気がした。
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日常のあれこれ : 面田紋次(おもたもんじ)
今日の新聞にミャンマーのことが書いてあった。昔のビルマである。ミャンマーは日本でいえば大和といったように昔からのこの国の名前なんだそうである。軍事政権もエジプトやカダフィなどのアラブの嵐の姿を見て怖くなったのだろう。最近 この国の軍事政権が少し民主化に向かいつつある。アメリカのクリントンも25年ぶりに大使を送り、大使館を開いたり、日本からも枝野大臣も訪れたりしている。人口が6000万人いて、労働賃金も中国に比べ格段に安い。長く自宅軟禁されていたアウン・サン・スーチーも解放されて今度の選挙にでるそうだ。この人のお父さんが第2次世界大戦でのアウン・サン将軍で日本軍と協力してイギリスと対抗した。「30人の志士」と呼ばれた。独立した1948年の前に暗殺された。この人の日本名が面田紋次である。ミャンマーには姓というものがない。アウン・サンは父の名前でスー・チーが母の名前である。
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※ 講演の動画の中で祖国をミャンマーでなく「ビルマ」と陳べているのが印象的です! 永年に渡る軟禁時代に殺されなかったのは「ビルマ建国の父」「面田紋次」の因縁と、仏教徒の国であったことでしょうか?
これから長生きされて、”一般的に苦しみを意味する「ドゥカ」”の少ない社会を築いて行かれることを心より祈ります。