千家:表・裏・武者小路、織部家は知っていたが、上田宗箇家は初めて知る。勉強不足だ!
武将の「茶の湯」継承 創始上田宗箇生誕450年、力強さ・雅を併せ持つ茶風 上田宗冏 :日本経済新聞
戦国時代、「武家茶」という独自の茶の湯を確立した武将がいた。上田流創始の上田宗箇(そうこ)。今年は数えで生誕450年。今も広島を本拠に流儀を受け継ぐ上田家当主として、宗箇について調べてきたことを語りたい。
常に一番槍務める猛者
宗箇は1563年、尾張(現愛知県)に生まれた。織田信長の家臣丹羽長秀に仕え、本能寺の変や大坂夏の陣で戦功をあげ、豊臣秀吉や徳川家康らの権力者に認められる。江戸時代に紀伊の浅野幸長に招かれ、浅野家が芸州移封となるのに従って広島に入国し1万7千石を知行した。
勇猛果敢な武将と茶の湯は結びつきにくいだろうが、実は密接に関係している。宗箇は長秀の侍児(小姓)として召し出されるが、当時の侍児は教養ある高い身分の少年がなった。宗箇も少年期に室町文化の薫陶を受け、高い教養を備えていた。
復元した上屋敷の鎖の間
一方、戦国の武将は常に死と隣り合わせだった。特に宗箇は戦にあたっては常に一番槍(やり)を務めるほどの猛者だった。戦乱に明け暮れる時代、生きるために必死に心身を鍛える中で、宗箇は教養ある武将として、参禅や茶の湯をよくし、自らを見つめた。
茶の湯は初め千利休に学び、さらに武将古田織部の門下となった。一切をそぎ落とす利休の「わび」、それを大胆かつ自由に発展させた織部の「へうげ」。宗箇はそのふたつの茶の湯を融合させ、武士にふさわしい力強さと雅(みやび)を併せ持つ、「ウツクシキ」という独自の世界観を生む。
例えば初期の自作の茶わん「さても」や竹の花生(はないけ)。豪快な外観だが、ここしかないというところに強く打ち込んだ箆(へら)目や荒々しくはぎ取った鉈(なた)目があり、考え抜かれた洗練さが感じられる。動的であると同時に微動だにしない力強さ。裂帛(れっぱく)の気合が表現されている。
特有の茶室様式つくる
「宗箇翁伝」にこんな表現を見つけた。「翁の茶に於(お)ける、楽しむ所は清静(せいせい)に在り。用いる所の器は唯(た)だ勁質(けいしつ)にして雅文なる者を好む。艶形(えんけい)華色(かしょく)は輒(すなわち)取らず」。強さと雅を併せ持つ独自の茶風であることがわかる。
宗箇はまた、織部とともに武家茶特有の茶室様式も生み出した。それまで狭い草庵(そうあん)だけだった茶室のすぐ隣に、8畳の広い書院造りの茶室を設けた。鎖で釜を釣った「鎖の間」と称し、草庵からすぐに移動してそこでも茶を楽しめるようにした。
広島の上屋敷には広い茶寮と書院造りの武家屋敷を造営し、茶寮に茶室「遠鐘」と「鎖の間」などを設置。将軍ら身分の高い人が直接、外の路地から茶室に出入りできるよう、長く広い渡り廊下を作り、「数寄屋御成(おなり)」という新しい御成の形態も確立した。
1650年、上田家2代当主の重政が没すると、宗箇は20日間絶食し、5月1日に息を引き取った。遺言により、骨は鉄ついで粉々に砕かれて早瀬の海に流された。荼毘(だび)に付された場所には松が植えられ、石を一つだけ据え、玉垣で囲った。日ごろは心身を鍛え、いざという時には死を真正面に見据えて戦い、死しては何も残さない。そうした精神を体現した簡素な墓であった。
上田家はその後も「茶事預(あずか)り」という師範制度により流儀は存続。明治新政府の廃藩置県で上屋敷を立ち退きになり、茶室も取り壊されたが、広島市西部の屋敷に拠点を移して流儀を継承した。
30年かけ建物や庭再現
私は1972年に20代後半で流派の若宗匠を継承した。35歳で一念発起し、武家茶を象徴する上屋敷の書院屋敷や茶室を復元しようと決意した。地元経済界の支援も得て、古い図面を頼りに、建築家と作庭家と話し合いながら少しずつ建物や廊下などを造営。30年の歳月をかけ、2008年に完成させた。実に137年ぶりの再現である。
私が生まれた45年、広島中心部は原爆投下により壊滅的な打撃を被った。私の祖父母や父も被爆して死んだが、爆心から離れた西部の屋敷は無傷で残り、結果的に美術工芸品や歴史文書などが難を逃れた。生誕450年を記念し、これら宗箇ゆかりの文化財の数々や鎖の間などを再現した空間を東京・銀座(16日まで)と広島で展示する。これらを通し、桃山の武将茶人の生きざまと心に触れてもらえたら幸いである。(うえだ・そうけい=上田宗箇流家元)