連歌復活、神社が発句 明治以降下火、宮司仲間らと手探りで四半世紀
杭全神社連歌所での連歌会
「楠(くす)若葉待ちし宮居の手向哉(かな)」
1987年5月5日、私が宮司を務める大阪市平野区の杭全(くまた)神社で、五七五の長句と七七の短句を交互に読み継ぐ連歌が復活した。
樹齢1000年を超える大楠(おおくす)をモチーフに、五七五の頭に「く」「ま」「た」が冠(かぶ)った「客発句」を詠んでくださったのは、大阪大学名誉教授の島津忠夫先生。2句目は「亭主脇」と呼ばれ、地元の人間が詠む習わしがあるため、私が「平野の郷(さと)に薫り立つ風」と付けた。
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きっかけは「奥座敷」
参加した連衆(れんじゅ)は11人。2句目以降は「宗匠(そうしょう)」を務める元京都女子大学教授の浜千代清先生が、連衆から出される句の採否を決めていく。甲南大学教授だった寺島樵一さんの挙句(あげく)「翠(みどり)を含む木々の若枝」まで36句(韻)が詠まれた。以来、四半世紀にわたって、ほぼ毎月連歌会を開いている。
連歌は平安時代から江戸時代にかけて盛んに詠まれたが、明治以降、連歌会はほとんど開かれなくなっていた。杭全神社で復活させたのは、連歌を詠むための建物「連歌所」が残っていたことがきっかけ。宝永5年(1708年)もしくは享保4年(1719年)に建て替えられたと伝わる建物で、12畳の主室と4畳の控えの間で構成する。全国的に見ても現存する連歌所は少ないらしく、大阪市文化財に指定されている。
前宮司の長男に生まれた私は神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮や京都市の八坂神社での修行を終え、86年に40歳で杭全神社に戻ってきた。それまで物置のように使っていた「奥座敷」が、突然貴重な建物だと聞かされ、「どう活用したらよいのか」と戸惑った。
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住職や教授ら集う
相談したのが、高校の同級生で全興寺住職の川口良仁くん。彼は「平野の町づくりを考える会」の事務局長で、地域の人々向けに「含翠堂(がんすいどう)講座」を5月5日と10月10日の年2回開いていた。「まず講座で連歌を取り上げよう」。そこで連歌研究で知られる島津先生にお話をしていただいた。
次はいよいよ連歌所での連歌会。ここで大きな力を貸していただいたのが浜千代先生。国語学者で「最後の連歌師」とも呼ばれた山田孝雄(よしお)博士に学んだ方で、連歌の実作に関して多くのことを学ばせていただいた。「(神仏に奉納する)法楽の連歌を宗(むね)とすること」など「平野連歌八則」は、浜千代先生が唱えたものだ。
もう一人が須佐神社(福岡県行橋市)前宮司の高辻安親さん。須佐神社では明治以降も年1回、奉納連歌が続いており、私たちが復興するときにお手本とさせていただいた。「比べるものがなくなったときに文化は滅んでしまう」と、「仲間」ができたことをとても喜んでくださった。
残念ながら浜千代先生は2000年に亡くなられた。同年1月に開いた連歌会の発句「平らかに成る年こそは今年なれ」は、私が前年に先生のお見舞いにうかがったときに頂戴したものだ。平野連歌会での先生最後の句となった。同年4月には追善連歌会を開いた。
高辻宮司は毎年2月、須佐神社の連衆とともに平野連歌会に来られるのが恒例で、それは亡くなられる04年まで続いた。最後の連歌会で詠まれた発句が「冴(さ)えかへり禍津日(まがつひ)の依(よ)る隈(くま)もなし」。災厄の神である禍津日がとりつく陰りもないとの意味だろう。
翌年須佐神社で追善連歌会を開き、私は発句で「秋おくる歌会(うたえ)いやしけ須佐の杜(もり)」と、須佐連歌会がますます盛んになっている様子を詠んだ。
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現代語や流行語使わず
連歌を始めるまでは短歌や俳句にも縁がなかった私だが、今では島津先生ら3人と交代で、連歌会全体の流れを決める宗匠を務める。もっとも、専門家である他の3人とは異なり、連衆の皆さんの顔色を見ながら進めているというのが実態だが。
連歌では現代語や流行語は使わない。「飛行機」「自動車」のような漢語も避けた方が良いとされ、言い換えを考える。これは苦しいことではあるが、日本古来の祝詞を詠む立場として「日本語とは何か」を考える上で勉強になっている。
伝統を守る一方、普及のために誰でも参加できるよう、満開の桜の下に座をつくる「花の下(もと)連歌」やホームページで句を募集する「インターネット連歌」も手がける。幸い連歌の輪は須佐、平野以外にも広がりつつある。様々な地域の方々と手を携えて、連歌を未来につなげていきたい。(ふじえ・まさのり=杭全神社宮司)