東京・六本木ヒルズ内の森アーツセンターギャラリーで開催中の「没後150年 歌川国芳展」(日本経済新聞社など主催)の入場者数が28日、10万人を超えた。10万人目となったのは神奈川県大和市の三浦陽子さん(41)。三浦さんには展覧会図録と記念品が贈られた。
同展は過去最大規模の国芳展で、武者絵や戯画など代表作から新発見作まで約420点が出品されている。前後期でほぼ半数の作品が入れ替わり、現在は後期展示中。2月12日まで開催。
没後150年 歌川国芳展 …公式サイト
猫も金魚も化物も歌川国芳の江戸っ子仲間:日経ビジネスオンライン
天保13年6月、天保の改革の一環として役者絵・遊女芸者風俗の絵を出版することを禁じるお触れが出され、錦絵の出版界は大きな打撃を受けた。しかし、それはかえって国芳に縦横無尽に戯画の筆を揮わせることとなった。
「戯画」は、ときにカリカチュア、風刺画として説明されることがあるが、国芳の戯画に毒はない。底抜けに明るく、ファンタスティックな夢に溢れている。
みんな一緒に生きている「きん魚づくし ぼんぼん」
このシリーズは、これまで8図が確認されていたが、「ぼんぼん」は、新たに発見された9図目の作である。中判(大判の半分のサイズ)のシリーズの場合は、通常、2図が1枚の大判の版木で作られることから、本図の登場は、10図目も制作されていた可能性を示す意味でも重要である。
「ぼんぼん」とは、お盆の頃、手をつないで横に列を作り、歌を歌いながら歩く子どもたちの遊び。江戸では女の子だけがこの遊びをしたと伝えられる。
上部から下がる金魚藻は、柳の見立。金魚たちは掬い網の団扇を手にしている。大きく口を開いているのは、ぼんぼん歌を唄っているから。
浮草の団扇を手にした小さなオタマジャクシが、姉さん金魚にしっかりと手をつながれているのも、弱いものに対する国芳の温かい眼差しがあってこその表現であろう。
国芳は向島に住していた頃、毎朝田圃に行ってカエルをつかまえ、自分の家の庭に放してその鳴声を楽しんだとも伝えられる(飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』)。オタマジャクシに手が出て足が出ていく成長を、国芳はわが子のように目を細めて見守っていたのではなかろうか。まだ、尾のとれないオタマジャクシに、国芳が送るエールが聞こえてくる。
「おぼろ月猫の盛」
猫の廓である。題名は、芭蕉の句「猫の恋やむとき閨の朧月」にちなむ。
この団扇絵が出版されたのは弘化3年(1846)で、遊女絵の出版が禁じられていた時期である。また、弘化2年(1845)12月に新吉原の遊郭が全焼する大火事があったため、遊郭が仮宅といって別な場所で営業が許可されていた時期でもあった。この絵には、禁令をかわすアイデアと共に、仮宅営業の遊郭というタイムリーな側面も含まれているのである。
遊女の並ぶ座敷の中を覗く遊客たち。賑やかに往来する猫たちの足元は、板葺きの屋根。猫の遊所は屋根の上なのである。
猫たちは、みんな笑っている。羽織の紋がウナギや魚や貝、着物の模様が小判や蛸、鈴、蝶など猫に縁のものとなっているのは、国芳の得意とするところ。箱提灯に書かれた店の名も「やまとや」ならぬ「にゃまとや」。
驚かされるのは、威勢よく駆け抜ける駕籠かきの後姿。三毛猫と見ればそれまでだが、筋肉の盛り上がった背中や肩の斑模様が、雲龍の彫り物のように感じられるのが何とも不思議なかっこよさである。
「道外(どうけ)化もの夕涼」
夏の掛茶屋。縁台に腰掛けて、何やら楽しそうに談笑する化け物たち。その仕草は全く江戸っ子そのもので、国芳は化け物さえも友としている。
掛行灯のお品書きを見ると「せうが湯六文・まっくら湯三文・化物くづ湯十文・ぶきび湯三文」とあり、「天狗の玉子湯」は二十二文と高い。湯を沸かすのは狸の文福茶釜でやかんにも顔がある。
着物の模様も「ドロドロ」の文字、卒塔婆、ドクロと、相変わらずの国芳意匠。通り過ぎて行くのは、縁日の土産を携えた親子連れ。お母さんが手にする鉢植えまでも…。
提灯の玩具を買って貰った女の子の表情のなんと嬉しそうなことか。その小さな手もお母さんにしっかりとつながれている。
どのような世界でも、この平和な日々が続きますように…。
国芳の戯画のキャラクターは他にも多く、蛸・蛙・狐・狸・コウモリ・雀・亀などの生き物ばかりではなく、七福神や福助・雷・天狗・達磨も自由自在に遊びまわっている。
見かけの姿形の違いなどお構いなく、国芳はみんな一緒に生きていこうと呼びかける。
「勇国芳桐対模様(いさましきくによしきりのついもよう)」
国芳一門が山王祭の踊りの列に参加した時の様子を描いた作。団扇、中図の傘や浴衣に見える桐紋は、「芳」の字を桐の形にかたどった「芳桐印」と呼ばれる国芳の画印。
上部霞の向こう側に描かれているのは、清元や長唄の手踊り連中の傘の行列と富沢町の「熊坂長範」の山車や踊り屋台。三味線やお囃子の賑やかな音が聞こえてくる。
先頭で背中を見せているのは国芳。格天井の絵のような青龍と白虎、菊と牡丹の大胆なデザインの衣装。国芳の後には、各々の名前を入れた扇子を持つ弟子たちが続く。
手をひかれている二人の子供は国芳の娘たち。源頼朝が富士の裾野で行った狩、「富士の巻狩」と呼ばれる画題に描かれる力持ちの小姓「御所五郎丸(ごしょのごろうまる)」の扮装をしているのは、長女のとり。陣笠模様の笠をさしかけられている次女のよしは、狩で動物を追い出す勢子(せこ)のいでたち。嘉永元年(1848)当時、とりは10歳、よしは7歳のかわいい盛りである。嘉永5年(1852)の国芳のシリーズ「山海愛度図会」では、二人の娘も各地の産物を描いたコマ絵を描いている。
まさに、国芳ファミリーの晴れ姿であるが、自分自身を一人後ろ姿とし、弟子や娘たちに花を持たせた図取りには、勇ましい強さと表裏一体にある、国芳の豊かな包容力と優しさが看て取れる。
実際に、国芳には弟子の数も多く、師弟の情誼は至極厚く、師匠が弟子を愛せば弟子も師匠を慕ったと伝えられている。
懐の広い国芳の薫陶を受けた弟子たちは、師の没後もさまざまな活躍を見せている。
落合芳幾は、明治5年(1872年)に東京最初の日刊紙である「東京日日新聞」の発起人の一人となり、明治7年(1874年)には錦絵版「東京日日新聞」を描き始め、錦絵新聞流行の端緒を開いた。
月岡芳年は、明治の浮世絵界に新しい画境を開いて活躍し、その弟子である水野年方の門下には鏑木清方がおり、清方の門下からは伊東深水が育っている。
* * *
近年、国芳の画業が広く紹介されるようになり、国芳に対して天才という言葉が冠されることある。確かに国芳のイマジネーションの驚くべき豊かさは、彼の天賦の才能を示すが、それだけではなく、彼が多くの他絵師の作品、版本の挿絵を渉猟し、時には貴重な蘭書までをも入手するなどして画想を肥やし、多様な画図を学んで自己の画技を磨くというたゆまぬ努力を続けたことによって得たものでもあろう。その作画に対する真摯な姿勢と熱意を忘れることはできない。
単なる奇想によってだけではなく、確かな造形力に裏打ちされているからこそ、その印象は一過性のものとならず、見る者の心を動かし続ける。
江戸は遠くなった。しかし、国芳の絵には、絵本来の持つ楽しさに溢れており、その楽しさを共に分かち合おうとする意志がある。その魅力は絵に対する初源的な喜びを充たし、いかに時代が変わろうと、人々の心に呼びかける普遍的な力を持っているのではなかろうか。
その世界は広いが、国芳はいくつもの扉を開いて我々を待っている。
【動画】…少し長いですが、お楽しみ下さい!
「江戸っ子浮世絵師、参上〜歌川国芳〜」 「江戸っ子浮世絵師、参上〜歌川国芳〜」 1:48:59 - ハイビジョン特集 天才画家の肖像