1月19日に米連邦破産法11条の適用を申請し、経営破綻した米イーストマン・コダック。創業の地であり、今も本社を構えるニューヨーク州ロチェスター市は、コダック創業者ジョージ・イーストマンが繁栄の礎を築いた企業城下町として知られる。
盟主の没落で地域経済は大きな打撃を受けていると思いきや、現地を歩くとそうでもない。産業構造の変化を受け入れつつ、過去の遺産を活用し将来の芽をはぐくむ米経済のたくましい姿がそこにはあった。
「破綻は起きて欲しくはなかったし、一部の人々が影響を受けることは残念に思う。だが、この町はこの出来事を乗り越えるだろう」――。
コダックの破産法申請の知らせを電子メールで受け取ったというトム・リチャーズ市長は19日、地元メディアにこう語った。
人口21万人。五大湖の1つ、オンタリオ湖の南岸に位置するロチェスターは事務機器大手のゼロックス創業の地として、またコンタクトレンズ大手のボシュロムが本社を置くことでも知られる。
だが、全盛期には「市の経済の半分を担っていた」(リチャーズ市長)というコダックは別格だった。
長い間、同市最大の雇用主だったコダックも、写真フィルム市場の縮小と軌を一にして存在感が徐々に低下。1982年のピーク時に6万人以上いたコダックの雇用者数は、足元では7000人まで落ち込んだ。
「フィルムの巨人」の衰退を象徴する場所が、市中心部から北に5キロのところにある。
旧「コダック・パーク」。東京ドームの100倍を超える敷地には、かつてフィルム工場など大小200棟の建物が所狭しと並んでいたが、いまは空き地が目立つ。
事業の縮小や撤退などに伴い、90年代以降「空き家」が急増。節税などのために80棟が姿を消していった。
コダックの経営破綻を報じる地元紙の自動販売機(奥は旧コダック・パーク)
フィルムの町を象徴するモニュメントの横には「借り主募集」の看板。全盛期に200棟あったコダック・パークの建物は120棟に減り、周辺は空き地が目立つ
旧コダック・パークは「イーストマン・ビジネスパーク」に改称。施設の一部を材料化学系ベンチャーのインキュベーション施設に作りかえた
敷地の一角には、直径5.4メートルの巨大な「ロール・コーティング・ホイール」のモニュメントが置かれている。
フィルムの製造工程で使われていたホイールは町の主要産業が何であったかを雄弁に物語るが、いまはさび付き、足を止める人もいなくなった。
コダックが支えきれなくなった雇用を吸収したのは、主にサービス産業だ。筆頭は1916年に地元で創業したスーパーマーケット「ウェグマンズ」。旧コダック・パークから車で約5分の場所にある店舗をのぞくと、平日にもかかわらず店内は多くの客でにぎわっていた。
米誌フォーチュンの「働きたい会社トップ100」の上位の常連としても有名な地元のスーパー「ウェグマンズ」はコダックを抜き、民間企業で最大の雇用主になった
ウェグマンズは従業員の福利厚生の手厚さや顧客サービスの高さなどが評価され、米誌「フォーチュン」の「働きたい会社トップ100」で98年以降、毎年上位に入っている優良企業。2005年には1位に選ばれた。
ロチェスターの17店舗を含め、全米で79店舗を展開。11年の売上高は62億ドル(約4700億円)に達する。全米で合計4万2000人を雇い、ロチェスターではコダックを抜き、民間企業で最大の雇用主になった。
米調査会社キャピタルIQによると、1960年の米企業の雇用者数ランキングで製造業は上位10社のうち7社を占めていたが、2010年はわずか1社になった。
ウェグマンズ店内は多くの客で賑わう
ロチェスターでのコダックからウェグマンズへの主役交代は、製造業からサービス業主体にシフトした米経済の縮図ともいえる。
しかし、「ものづくり」が町から消えたわけではない。90年代以降の「選択と集中」の過程で、コダックから分離・独立したり、買収されたりした事業の多くは今も健在だ。医療画像関連メーカーのケアストリームヘルスや、宇宙・防衛産業向けの遠隔検知・操作システム事業をコダックから買収したITTインダストリーズなどは雇用の担い手として存在感を高めている。
コダックの元社員らによる起業の動きも活発だ。コダックなど大企業が隆盛を誇っていた80年には、従業員が1000人以下の中小企業が市の雇用全体に占める比率は57%だったが、08年には80%に増加。サービス業と並んで、地元経済を支える柱となった。
トランスペアレント・マテリアルズは歯科や整形外科向けのインプラント材料を開発する(実験用のボトルを手に持つジョー・ブリングリー社長)
08年設立の生体活性材料メーカー、トランスペアレント・マテリアルズもその1つ。従業員数6人のうち、ジョー・ブリングリー社長(49)を含む3人が元コダックの化学者だ。歯科向けのインプラント材料が現在の主力製品だが、副作用が少なく長期間交換が不要な整形外科向けのインプラント材料の開発にも取り組む。
ブリングリーさんがロチェスターで起業した大きな理由の1つは、コダックの“遺産”にある。トランスペアレント社のオフィスは、実は旧コダック・パークの中にある。コダックは「空き家」になった建物の一部を改修。09年に「イーストマン・ビジネスパーク」と名付けて、ベンチャー企業などに相場よりも安い家賃で提供し始めた。
ビジネスパーク事業を統括するコダックのマイク・アルト氏は、「実験用の設備から、原料の調達、廃棄物の処理まで材料化学のベンチャーに必要な施設が1カ所にすべてそろっているのが強み」と説明する。
現在はブリングリー氏の会社を含め、バイオ燃料や太陽電池関連のベンチャー7社が入居し、研究開発に取り組んでいる。
コダックが転落した結果、リストラで職を追われた化学者やエンジニアの起業家魂に火を付けたことは皮肉だが、この破綻と再生のサイクルこそがイノベーション大国アメリカの強みでもある。
ジョー・ブリングリー社長は「人材の厚みがロチェスターの魅力」と話す(同僚でコダックOBのデイビッド・ステクレンスキ氏と)
ブリングリー氏は、「博士号を持つ社員が7000人もいたコダックOBのネットワークは強力。自分がコダックOBでなかったとしても、人材の厚みを考えれば、ロチェスターで起業していただろう」と話す。
ロチェスター大学経営大学院のラリー・マッテソン教授は、「コダックの破綻はロチェスターにとって経済的な側面と、感情的な側面の2つがあるが、経済的にはウェグマンズなど新たな担い手が台頭しており、影響は限定的」と指摘する。
その一方で「コダックが町の発展に大きく貢献してきたことは事実であり、感傷的な喪失感はしばらく続く」(マッテソン教授)と見る。
コダック創業者のジョージ・イーストマン氏は、ロチェスターの教育・文化水準の向上に巨額の私財を投じた(市中心部にあるイーストマン劇場)
創業者のジョージ・イーストマンは全米から優秀な人材を集めようと、ロチェスターの教育・文化の向上に私財を惜しみなく投じた。
ロチェスター大学やイーストマン音楽学校はいまも全米トップクラスの学校として、国内外から多くの学生が門をたたく。
田舎と都会、ビジネスと教育・文化がほどよく混在したロチェスターの住み心地のよさが、高い市場シェアと相まって外の世界の変化への感度を鈍らせ、コダックが独善的になる一因となったとの指摘がある。
コダックもそのことを自覚していたようだ。実は90年代初め、本社をワシントンに移すことを真剣に検討した時期があった。
市内に残るコダック創業者ジョージ・イーストマンの家。写真に関する資料館として公開されている
世間の風を敏感にとらえるには“遷都”が必要と考えたケイ・ホイットモア会長(当時)の指示によるものだったが、93年に後任としてモトローラからやってきたジョージ・フィッシャー氏が撤回し、計画は幻に終わった。
コダック・モーメント――。米国では絶好のシャッターチャンスをこう呼ぶ。数々の輝かしい瞬間をコダックと共に刻んできた城下町ロチェスターは、恩義を感じつつも「コダックの先」を見据えて動き始めていた。
歴史に「もし」はないが、コダックが90年代初めにロチェスターを飛び出していれば、その後の進路は変わっていたかもしれない。数々の自己変革のチャンスを逃した名門企業が最後に払った代償は小さくはなかった。
(ニューヨーク=小川義也)